2014年10月26日日曜日

「マスクをして遊ぶサイレントキッズ」は実在しない

先日、保坂展人氏(現・世田谷区長)のコラム『子どもの声は「騒音」からはずす』を読んでいてびっくりすることがあった。このくだりである。

  「マスクをして遊ぶサイレントキッズ」を取材したいという問い合わせがありましたが、これはあくまでも比喩的表現です。苦情を受けて、「午後は園庭に出 ていない」「園庭に出る時間を制限している」「声を出さないように注意している」等の制限を加えていることへの違和感を表したものでした。
「マスクをして遊ぶサイレントキッズ」は比喩的表現だというのである。
ちなみに元になったツイートはこれである。



同様の表現は



元になったツイートでは「 マスク等で口を封じて遊ぶサイレントキッズの姿」となっている。果たしてこれが比喩的表現なのだろうか。みなさん、これ、比喩的表現に見えますか?私には見えません。実際に「 マスク等で口を封じて遊ぶサイレントキッズ」がいるのだろうかと思った。取材を申し込んだ人間もそう思ったからこそ問い合わせ(おそらくどこの保育園ですか?というようなことだろう)をしたのだと思う。

そもそも「マスクで口を封じるようなもの」ならまだ分かる。「マスク等」と“等”をつけることで手段に具体性を持たせて書いているのが、実際に現場でそのような具体的な対策があるかのように読める。比喩なら“マスク等”なんていう具体性を喚起させる表現が必要だろうか。

また続け て「その光景は怖いものがある」とくればその光景、すなわち「マスク等で口を封じて遊ぶサイレントキッズの姿」がただちに想起されるのではないだろうか。「こうしたクレームへの過剰反応」というのも現場での具体的対策として「 マスク等で口を封じて遊ぶ」を受けてのことだと思う。

繰り返すようだがこれが比喩だというのが理解できない。「マスクをして遊ぶサイレントキッズ」が実在しないというのであればこれは悪質な嘘やデマの類ではないかと思う。おそらく取材者から「サイレントキッズ」を取材したいのでどこの保育園か教えて欲しい、というような問い合わせがあったのではないか。しかしそのような子どもは実在しないので、あわてて「比喩的表現」ということにして取り繕おうとした、というのが真相ではないかと思う。

では何故このような 悪質な嘘やデマを流したのか。おそらく「可哀想な子供、酷いクレーマー」という空気を醸成するのが目的だったのではないかと思う(そしてその試みは成功したように見える)。端的にいえばプロパガンダである。プロパガンダの手口には、己の主張を正当化するために相手の悪魔化を行う、というものがある。「あいつは悪いやつだ、だからわれわれは正しい」ということである。かつては国会議員も務め、現在も区長という立場にある人間がこのような手口を使うというのはまったく感心できない(どんな立場であれ好ましくないことに変わりは無いが)。騒音被害者に対する心無い中傷もネットでは多く見られるが、このようなものも一因になっているのではないか。どうして法によって守られるべき被害者が、嘘やデマによって悪魔化された上に酷い中傷という二次被害を受けなければいけないのか。

どんな議論であれ、悪質な嘘やデマを流すのではなく、正しい事実と知識に基づいて行うべきだろうし、間違いがあったのなら「比喩的表現」だとかいってごまかすのでなく、訂正し謝罪をするのがそれなりの立場にいる人間としての誠実さというものではないだろうか。

「子供の騒音」について当事者である保育事業関係者はどう考えているか

平成26年9月17日に行われた、第18回子ども・子育て会議の議事録が公開になっていた。(リンク)「子供の騒音」についても話題になったようなので該当部分を引用して私見を述べてみたい。彼らの意見が保育事業者や保育に関心のあるマスコミの総意とは思わないが、何を考えているかの一助にはなると思う。引用した委員は以下の通りである。肩書きは子ども・子育て会議にある「委員一覧」のものを使用した。駒崎、山口氏は保育所の経営者でもある。榊原氏は子育てや幼児教育に継続的に取り組んでいる記者のようである。


(NPO法人全国小規模保育協議会理事長)駒崎弘樹

(読売新聞東京本社社会保障部次長)榊原智子

(一般社団法人日本こども育成協議会副会長)山口洋


駒崎委員:2点目は、これは小規模保育のみならず、恐らく保育園業界等に大きな衝撃を与えるのではな
かろうかなと思うのが、10日前に神戸市の東灘区で70代の男性が、保育所がうるさいということ
で訴訟を起こした事件がありました。この判決いかんによっては、リスクが高過ぎて都市部で保
育所がつくれなくなります。なぜならば、近隣の住民から訴訟を起こされて簡単に負けるように
なり、そして引っ越せみたいなことを言われると、どうすればいいのかというふうになってしま
うわけなのです。なので、地味ですが、この判決というのは非常に重要ですし、日本の将来を左
右するようなインパクトを与えると言っても過言ではありません。
これに対して、既存のメディア各社の論調を見ますと、昔は日本人は寛容だったけれども、不
寛容になってしまって残念だねみたいなモラルの話にしてしまうケースが多々ありますけれども、
それを単なるモラルの話にしてほしくないというふうに思います。これは明らかに制度の不備で
あります。
というのも、例えばドイツでは子どもの騒音への特権付与法というのが2011年に可決されて、
子どもの声は騒音とみなさないというふうになりました。よって、損害賠償請求をされることが
ないというふうにしたわけなのです。これによって、こうしたケースにおいても、保育所として
は出ていかなくても済む、あるいは膨大な損害賠償の額を払わなくても済むというふうになりま
した。
こうしたインフラがなければ、我々が保育所を続けていく、あるいは新規に都市部に設立して
いくというのはなかなか難しくなってしまうわけなのです。皆様も御案内のとおり、待機児童の
8割は都市部です。そして、こうした訴訟が起こるのは都市部であるわけなので、非常にクイッ
クにこうしたケースに対する対応をしていただけたらと思います。我が国もドイツを見習って早
急な法整備が必要だなと思いますので、直接今回の話題とは異なりますけれども、ぜひ検討いた
だきたいと思っております。地味だけれども、これは非常に重要なテーマでございます。

榊原委員:それとは別に、今、駒崎委員が提起なさった子どもの声は騒音なのかという点については、子
ども・子育て会議の議題にはならないのかもしれないですが、人口減対策に政府が乗り出す中で、
こうしたこともそろそろ社会合意に向けた議論をすべき段階に来ていると私も思います。子ども
が社会の中のマイノリティーになる中で、多数決で騒音として扱われるだけでいいのかというこ
とについて、政府のほうでも明確な問題意識を持って考えていただきたいと希望します。

山口委員:私からは2点質問させていただきたいと思います。2点とも直接今日の議題には関係ございま
せんが、1つ目は子どもの騒音問題です。先ほど駒崎委員と榊原委員のほうから問題指摘が出ま
したので、ちょっと便乗させていただきたいと思っています。
といいますのも、私は個人的に当社が運営している東京都内の施設でもう既に1年前に訴訟状
態に入っております。その内容は、1,000万もかけて高速道路に設置するような防音壁を設けたり、
いろいろ取り組んできたのですが、境界上で50デシベルを一瞬でも超えたらだめなのだというそ
の1点だけで訴えられるような、そういった事態に陥っているわけでございます。
幸いマスコミのほうは、テレビ局も新聞も同情的に扱っていただいているのですが、また、東
京都などもそれに対する対応、条例の改正を含めて、そういったものも検討していただいている
のですが、これは東京都だけの問題ではございません。近ごろ、大阪だとかいろんなところで私
どもも保育園の新設の開発を進めておりますが、そんなところでもこういった訴訟のことを知っ
て、年間で幾らかよこせば黙っておいてあげるよとか、そういった住民もいるほどでございます。
そういったところは最初からトラブルになる可能性があるわけですから、開設は諦めるわけなの
ですが、これから保育園の開設がどんどん増えていく中で、これは全国的な都市部の問題だと思
います。
そこで、質問させていただきたいのは、厚生労働省としてこういった問題を今まで考えてこら
れたかどうか。それから、こういった問題が訴訟になってきたということを前提に考える余地が
あるのかどうかということをお伺いしたいというのが1点目でございます。

これらの意見に対して行政側からは厚労省 朝川保育課長からの返答があった。
「山口委員、ほかの委員からもありましたけれども、騒音の問題について訴訟が起きているとい
うことについてでございます。訴訟が起きてしまっているということについては非常に残念なこ
とだと思っておりますが、今日複数の委員から同様の意見をいただいたことも含めまして、今後
よく勉強させていただきたいと思います。」




以下、私見。

駒崎氏の関心は「リスクが高過ぎて都市部で保育所がつくれなく」なる、そのために子供の声を騒音としないとすることで「膨大な損害賠償の額を払わなくても済む」ということにあるようである(法で定められた基準を超えた騒音に悩まされる住民が現実に存在するという事実に少しでも向き合って欲しいものだが)。

ドイツのような法整備がなければ保育所を続けていくのが難しいということのようだが、騒音による「膨大な損害賠償」のリスクがあるというなら(法的基準を超えていなければまず負けないと思うが)まず防音対策をすればよいのではないかというのがまっさきに頭に浮かぶ。それが事業者の法的・社会的責任というものだろう。あるいは、膨大な防音対策の額を払わなくても済む、ということなのかもしれない。それならそれでそう率直に訴え、自腹で捻出するのが困難なら補助金なりを求めるというのが筋なのではないだろうか。裁判に負けて損害賠償を払いたくないのですが、いくら騒音を出そうが防音をする気はありません、法のほうをなんとかして下さいという態度にはあまり関心できない。この無責任ともいえる発想には騒音に悩まされる住民の苦痛などまるで考慮されていない(「膨大な損害賠償」も払いたくないし、防音対策もしない、どれだけ騒音が苦痛だろうが近隣住民はただ我慢しろということなのだろうか)。

言うまでもないことだが、仮に法改正がされたところで騒音被害者の苦痛が減るものでもない。またこの“改正”で新規の建設がより困難になるという可能性もある。一度出来たらどれだけ騒音を出そうが法的な救済が望めないのだから、近隣住民としてはできる前に必死に反対しようとするはずである。これでは保育所増設という目標と逆行するのではないか。このような事例が実際にドイツでも起きているとするブログ記事もあった。以下引用する。
「住宅を探していると家主に相談すると、当初は関心をもってもらえる。しかし、それが保育所経営のためだとわかると、「話しがすぐに終わる」のだそうである。家主が恐れているのは、他の借家人からの抗議や苦情だろう、という。」
「この規定は、保育所等を騒音による損害賠償請求の対象から外すことを目ざしているもので、これで保育所を建設しやすくなるという規定ではない。場合によっては、逆効果になるケースが出てくる恐れもある。」(ドイツの「子ども施設による騒音への特権付与法」の限界)。

このような事例もあるだろうから、法(あるいは条例)改正がドイツ社会に与えたインパクトをドイツ語やドイツの事情に精通した人間がちゃんと調べたほうがいいのではないかと思う。端的に悪法に見えるし、むしろ防音対策をすることでこのような事例は防げるのではないかと思う。

ちなみに駒崎氏が例に出している神戸の保育所の件では「日中は70デシベル以上でこの地域の基準の60デシベルを上回り、家族の会話やテレビを見るのにも支障がある」(朝日新聞2014年9月6日保育園児の声は騒音? 近隣住民の1人が提訴 神戸)ということである(会話やテレビの視聴に支障が出るという環境を想像してみて欲しい)。また「膨大な損害賠償」といっているが原告の弁護士のブログ記事(リンク  この記事には原告の主張する訴訟までの経緯も詳細に書かれているので是非読んでもらいたい)によれば「100万円という請求額は、弁護士費用や訴状に添付する印紙代、騒音測定のために購入した器械の代金などを考えると、全くもとがとれないものです。」という性質のものである。また求めているのは「あくまで防音対策」である。「引っ越せみたいなこと」ではない。あるいはそういう事例もあるかもしれないが私は知らない。ご存知の方は教えて欲しい。


次に榊原委員の意見について、「多数決で騒音として扱われるだけでいいのか」という問題意識があるようであるが私はこれに賛成する。騒音かどうかはあくまで騒音が人の心身に与える影響の科学的知見に基づいて決定すべきことであるように思う。ちなみに環境基本法に騒音に係る環境基準というのがあるがこれはどのように決定されているか。環境省(リンク)によると「環境基準は、現に得られる限りの科学的知見を基礎として定められているものであり、常に新しい科学的知見の収集に努め、適切な科学的判断が加えられていかなければならないものである。」とのことである。騒音かどうかもこのような視点からのみ決定されるべきものと考える。例えばたばこの煙やダイオキシンがどれだけ有害かの扱いを多数決で決めようということになるだろうか。科学的根拠を元に決定されるのではないだろうか。


次に山口委員の意見について。山口氏は「境界上で50デシベルを一瞬でも超えたらだめなのだというその1点だけで訴えられるような、そういった事態に陥っている」ということのようだが私はこれを疑問に思う。訴訟の詳細を知らないので何ともいえないのだが、基本的に騒音を評価する時には等価騒音レベルという指標を用いるように思う。詳細は検索して確認して欲しいが、これは時間当たりの平均的な騒音レベルのことで、環境基準の基準値もそのような意味で設定されている(リンク「騒音の評価手法は、等価騒音レベルによるものとし、時間の区分ごとの全時間を通じた等価騒音レベルによって評価することを原則とする。」)。一瞬でも越えたらダメだというようなものではない。端的に事実誤認か理解不足があるのではないかと思う。訴訟の当事者がこのような理解であるというのも、騒音に対する意識の低さを表しているように思う。あるいは原告の主張がそうなっているのかもしれないがそのような訴えが一年も続くだろうか。「境界上で50デシベルを一瞬でも超えたらだめ」などという騒音の評価方法を無視した主張は裁判官により一蹴されるのではないか。あるいはうがった見方をすれば、騒音の評価方法は知っているが、こんな酷い原告がいるという印象を与えるための方便であるともいえるかもしれないし、そう捉えるのが自然のようにも思える。

2014年10月22日水曜日

議事録に見る「子供の騒音」に関する東京都環境局の見解

 http://ta34bj.blogspot.jp/2014/10/blog-post_21.html
前のエントリーの補足

報道発表という形では存在しないが議事録として残されているもの。
報道の検証という意味もかねて東京都環境局の見解が主眼であるので、質問は要点のみを引用した。引用されなかった部分にも議員の問題意識が表現されていると思うので、気になる方はリンク先から確認してください。



予算特別委員会速記録第二号
http://www.gikai.metro.tokyo.jp/record/yotoku/2014/2-01.html
平成26年3月12日 質問者は秋田一郎氏

質問:東京都はどのような紛争事例を把握しているのか。また、保育園や幼稚園などでの子供の声に対し、東京都条例がどのように適用、運用されているのかを伺います。

環境局長:保育園の園庭や学校のグラウンド、公園での子供の声や物音をめぐって、公害審査会での調停や裁判に発展したケースが、都内のほか、神奈川や大阪などでも起 きております。具体的には、施設側が隣地住宅の二重窓の費用を負担した事例、施設の利用時間を制限した事例、公園の一部施設の使用を制限する仮処分を受け た事例などがございます。
 環境確保条例では、何人も規制基準を超える騒音を発生させてはならないと規定しておりまして、子供の声や物音もその規制基準値の対象となっております。
 実際に騒音苦情に対応している区市におきましては、保育園、学校などにおける子供の声や物音への苦情があった際には、現状を確認した上で、必ずしも規制 基準を機械的に適用するのではなく、お互いの理解を得ながら、話し合いによる解決が図られるように努めているところでございます。

質問: 東京都は、子供の元気な声や物音を、工場などの騒音と同列に規制している条例を見直し、子供の健やかな発達に配慮した制度にするべきです。所見を伺います。

環境局長:成長過程の子供たちの声や物音をむやみに抑制することは、子供の健全な発育を妨げるというご意見がございまして、また、条例の中で一定の基準を示すことにより、騒音苦情の解決の目安になるという考え方もございます。
 貴重なご提言をいただきましたので、苦情者側、保育施設などの施設管理者側、それぞれの視点からバランスをとりながら問題を解決することができるよう、 今後、騒音規制の窓口であります区市や施設管理者など関係者のご意見をお聞きし、子供の健全な発育に配慮した制度のあり方について検討してまいります。


平成二十六年東京都議会会議録第十二号〔速報版〕
http://www.gikai.metro.tokyo.jp/record/proceedings/2014-3/02.html
平成26年9月24日 質問者は村上英子氏

質問:都は、本年の予算特別委員会で、騒音規制の窓口である区市や施設管理者などの意見を聞いて、子供の健全な育成に配慮した制度のあり方について検討していく旨を表明いたしました。
 都は、条例の規制の見直しに向け検討を急ぐべきと考えますが、見解を伺います。

 環境局長:まず、子供の声に対する騒音規制についてでございますが、環境確保条例の基準は、騒音苦情の解決の目安になるとの考え方がある一方で、子供の健全な発育を妨げるという意見があり、これらの視点を踏まえた見直しが必要と認識しております。
 これまで、区市町村の環境部署や保育部署を対象に調査をしたところ、子供の声等に対し苦情があった区市町村は約七割あり、条例の規制基準の緩和または対 象外とすべきとする区市町村は約六割に上っております。また、幼稚園や保育所の団体からは、子供の声を抑制することは、子供にとってストレスになり発育上 も望ましくないなどの意見がございました。
 これらを踏まえまして、子供の健全育成に配慮しつつ、苦情の解決に資するよう、条例の規制に関する都の見直しの考え方をまとめ、条例を運用している区市と速やかに協議を開始いたします。

2014年10月21日火曜日

「子供の騒音」の件で東京都に電話で訊いてみた

東京都環境局に電話で訊いた



・「騒音規制から子供の声を除外する方針で検討」との報道は事実でしょうか?

「騒音規制から子供の声を除外する方針で検討」というのは事実ではない。具体的方針を定めたというような段階ではない。「今回、報道がそのように出てしまった」というような表現。
都議会で問題視する質問があった等の経緯があり、調査の結果、多くの市区でそのようなやトラブルがあるという事情をかんがみて、広くどうすればよいかというのを検討している。特定の方針が定まったという段階ではない。


・条例の改正は法律の範囲内ということだと思いますが、環境基本法との関係はどうなるのでしょうか?

環境基本法の環境基準は「維持されることが望ましい基準」努力目標で、運用は騒音規制法。
法律の範囲内ということについては法内でそう定められてて問題は無い。(多分、4条「当該地域の自然的、社会的条件に特別の事情があるため、前項の規定により定められた規制基準によつては当該地域の住民の生活環境を保全することが十分でな いと認めるときは、条例で、環境大臣の定める範囲内において、同項の規制基準に代えて適用すべき規制基準を定めることができる。」もしくは、27条「当該地域の自然的、社会的条件に応じて、この法律とは別の見地から、条例で必要な規制を定めることを妨げるものではない。」のことかなあと思う。)なので憲法94条の規定からみても問題ない。条例は法律の範囲内ということ。


・ 「騒音規制から子供の声を除外する」ことで酷い騒音が出ることになる可能性があり、騒音被害者の権利が損なわれることになるのでは?

それでは問題がある。


・園内部での園児や労働者にとっての騒音という問題もあるのでは

承知している。同様の意見も電話などでいくつか来ている。


報道の反響か、問い合わせがよく来てるみたいで、今日も何件来てたかなというようなことをおっしゃってた。
報道が事実と違うところがあるということであれば都のウェブサイトで報道発表として、たしかな情報を発信したほうが良いのではないかと思う。(何も決まってないのに何を発表するんだということなんだと思うが)市民の関心も高いように見えるし、確かな情報と知識が提供されて、それを元に考えることが良いのだと思う。その点でマスコミはあまり機能してるように見えない。報道発表資料としては何も出してないが、定例議会の議事録としては出してるということでした(そこまでの関心がある人も少ないんじゃないかな)。これはあとでリンクとか引用とかするかも。(追記:議事録に見る「子供の騒音」に関する東京都環境局の見解)

 環境基本法と騒音規制法の関係は正直よく分からない。専門家がこの件で意見してくれたら良いと思うのだけど。ただ改めて二つの基準を比較すると、努力目標に添う形で騒音規制法の基準が定められてるように見える。騒音規制法のほうが5dbほど厳しく基準を設定してあるケースもあるので、例えば45dbの基準値が環境基本法に合わせた50dbに緩和するというのが個人的には妥当なラインではないかと思う。それ以上では「人の健康の保護に資する上で維持されることが望ましい」環境でなくなるわけで、「国民の健康で文化的な生活の確保に寄与する」とする同法の目的にそぐわなくなり、それはつまり健康で文化的な生活が損なわれることになるのではないか。

2014年10月20日月曜日

現代の若者は絶望しているのか?を読んでの感想


現代の若者は絶望しているのか?

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/10/post-287f.html

を読んでの感想

 

第1部 子ども・若者の現状 (PDF形式:370KB) - 内閣府

www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h23gaiyoupdf/pdf/gaiyo_b1.pdf

若者(この統計では0~29歳と定義してます)の人口が、平成初頭では5000万人居たのが平成22年に3723万人になったという時、自殺者の絶対数が大きく変動してないという現象を、どう評価すべきなのだろう。もちろん自殺者の統計では0~14歳というのはほとんどカウントされてないようなのでもっと丁寧な議論が必要だろうけど、年齢別の人口あたり自殺数みたいな指標のほうが適切かもしれない。あるいは日本社会の絶望の総数は変わらないという風に見ることもできるかもしれない。

そもそもの話で、絶望とは何か希望とは何かみたいなこともよく分からない。自殺するほどの苦悩があってもある人は死を選びある人は生きてるわけで、じゃあ苦悩に対処さえ出来たら希望なんかなくても生きていけるじゃないかとも思う。逆に希望があったところで苦悩が圧倒的に強ければ(例えば過酷な長時間労働とか)死を選んでも不思議じゃない。そう考えると苦悩せざるを得ない環境があるんじゃないかとか、苦悩に対処するための知恵や文化が社会で広く共有されてるのか、という疑問がある。

 日本社会の絶望の総数は変わらないという話とあわせて考えると、死ぬほど苦悩せざるを得ない環境というのがいつの時代でも一定数、社会のどこかに存在してるのではないかという風にも見える。

それで、その手の闇(例えば社会に広く偏在する苛めや過酷な労働環境)を生み出して維持する力が社会の文化として、苦悩に対処すべき知恵や文化の代わりに、市民の圧倒的支持を受けて存在してるのではないかと思うときもある。そうじゃなかったらどうしてそういう悪習が生き残れるのだろう。「みんな」や「空気」の文化と呼んでもいい。

2014年10月18日土曜日

優しさについて 子供の騒音問題をめぐって

優しさについて

子供の騒音をめぐる議論や感想を見ていると、世の中には法と対立し、それを超越する道徳があるのではないかと思うようになった。これを優しさといってもいい。

どういうことか。例えば親や子がなにか物を盗んできたとする。親は子の将来を思い、子は親のためを思う。それを互いのために世に隠す。互いに相手を思いやる美しい親子の愛情のありようである。子の将来を思えばこそじっと世に隠す。子を警察に売るなんて論外である。そのような「優しさ」を良しとする道徳があるのでないかということ。

これはつまり盗みは良くないとする法よりも人間関係や情緒を基盤とした道徳が優先されるのを良しとする文化があるのではないかということである。この時、「優しさ」というのは人間関係の内側に居る人間に対して向けられる。優しさを求めるという時、人間関係の内側にいる人間に対して要求されるということである。優しさがないというとき、人間関係の内側に居る人間に対して冷たいということである。

それは法を超越した赦しを与えなさい、ということでもある。


私がここで疑問に思うのは、親子の人間関係の外に、物を盗まれた人間が存在するということである。世の中が人に「優しさ」を求め、赦しを要求する時、その人間関係の外側にいる人間のことが忘れられているのではないか。「優しさ」が世に溢れているときに、物を盗まれた人間はどうなるのだろう。社会が子供や「子供」という概念を宝とみなし、わが子のように思う時、そして、「優しくあれ」という道徳が法と対立する時、それは本当に「優しい」と言えるのだろうかということである。


この優しさの道徳は「親子」の人間関係の外側に居る人間に対しては容赦なく冷たい。「頭がおかしい」「キチガイ」「どうかしている」「自分勝手」「存在が害悪」「早く死ねばいい」というような言葉が容赦なく浴びせられる。このような悪意が物を盗まれた人間に対して向けられる時、一体「優しさ」というものにどんな価値があるのだろうと疑問に思わざるを得ない。

これはつまり「親が子を売るなんてどうかしている」ということであろう。「お前にも子供の時代があり、親に守られていたのではないのか」という理屈が背後にある。誰だって他人に迷惑をかけずに生きている人間など居ない。それを世の中は受け入れ赦してきた。お前もまた子であり親に守られていただろうということである。つまり(さきに人間関係の外側にいると書いた)「物を盗まれた人間」もまたかつて子であり親でもある、優しさの互助関係の内側の人間でしょう、ということである。


一見正しいようにも見える。一体彼らのどこが間違っているのだろうか。


おそらく、この時混同されているのは「迷惑」と「盗み」である。騒音問題で言えば、「騒ぐ」と「騒音を出す」である。他の例を出せば「人を叩く」と「人を傷つける」である。「嘘をつく」と「詐欺を働く」である。

一体、詐欺を働いた人間を告発する時、「お前も嘘をついたことがないのか」という人がいるだろうか。傷害を起こした人間を告発する時、「お前も人を叩いたことがないのか」という人がいるだろうか。同様に「人に迷惑をかける」と「盗み」には大きな差があるし、「騒ぐ」と「騒音を出す」にも大きな差がある。

もちろん「盗み」であれば「迷惑」である。しかし逆に「迷惑」であれば「盗み」であるということにはならない。さきの理屈で言えば「お前も迷惑をかけたのだから盗みぐらい多めに見ろ」ということである。ここにおそらく誤謬がある。

そしてもう少し言えば「盗み」というものも優しさの互助関係の中ではただの「迷惑」に見なしましょうという甘えがあると見る。「騒音」ではなく「騒ぎ」とみなしましょうという甘えがある。この時、法で定められた「盗んではいけない」「基準を超えた騒音を出してはいけない」という法的な責任は一体どこにいってしまったのだろう。盗まれた人間、騒音で被害を受ける人間の財産はどうやって回復されるのだろう。

そして盗まれた人間が盗みを世に告発する時に「優しさ」が盗まれた人間に悪意を向ける時、責任から逃げた人間が盗まれた人間に悪意を向けるという時、責任放棄と悪意の点で、二重の悪であると考える。つまり「優しさ」とはある時には二つの悪徳である。



私は人間の軽微な「原罪」を理由として法を犯す人間を互いに隠しあう優しさの互助関係の道徳は支持しない。これはただの責任放棄である。優しさの互助関係が盗まれた人間に悪意を向ける時、私はこれを支持しない。これはただの社会的苛めである。
法で守られるべき人間が正当に保護され、「優しい」人間から悪意の向けられる社会でなくなることを切に願う。